フリッツは1ヶ月前にここ、デュッセルドルフへやってきた。パブでウェーターを勤め、1日87ユーロを稼ぐ。寝泊まりするのは安アパート。数ヶ月前まで不法住居者達が占拠していたような建物だ。床から壁から天井まで至る所しみだらけ。部屋に備え付けのパイプベッドはすぐにも壊れそうなしろものだ。しかし、今のフリッツには高い家賃を払う余裕がない。娯楽にしても、ラジオがあるきり。もっとマシなところで暮らすには、デュッセルドルフを離れるしかない。近所の知り合いもまだ殆どいない。それでもフリッツにはデュッセルドルフを離れるつもりなどさらさら無かった。故郷に戻ったところでなにがある?つぶれかけた時代遅れの自動車工場だけ。それだけは嫌だ。
フリッツは今日、なんとかたまった資金を手にして念願の〈耳〉を手にいれた。古い補聴器のように耳のうしろに引っ掛けるタイプ。コントローラーとなるスロートマイクとは細いワイアでつながっている。フリッツはこいつが欲しくてたまらなかった。ライン川沿いの市庁舎通りを歩きながらフリッツは〈耳〉のスイッチをいれる。「オン」と囁くだけでいい。
〈耳〉は河の流れの音を聴く。ライン川のことじゃない。〈自由な流れ〉(フライハイトシュトルム)と呼ばれるネットワークの音だ。〈自由な流れ〉は統欧から北アフリカ、中近東までをカバーする市民情報ネットワークの集合体だ。こいつはインターネットの中に生まれた局所的なインターネットだった。政治的、商業的に独立していて、干渉されることがない。〈シュトルム〉(流れ)の由来は、これが幾つもの情報チャンネルを持っていて、それぞれカナル(運河)と呼ばれるからだ。
フリッツはうらぶれた電気屋でちらりと見掛けたカナルマップを思い描いた。
「ハウプトシュトルム24」
小声で言う。〈耳〉は重畳ネットワークのメインストリートへアクセスした。
「今日の分を再生してくれ」
『黒海沿岸の国境紛争はもうどうしようもない。国境なんてとっくの昔に時代遅れになっているのに、連中はなぜ気が付かないんだろう‥‥』
『パワーエリートの生き残りってやつがしがみついてんでしょう‥‥』
『それをいうならパレスチナの内紛はどうなんだい‥‥』
『そりゃ宗教紛争でしょう。次元が違うわ‥‥』
『いや、ミニ・パレスチナ構想に満足できない一派は以前から存在した。だいいち、宗教紛争とは違う。民族的な‥‥』
『おいおい、なんだいここは。お利口さんたちのなかよしサークルかい‥‥』
『ああら、残念。あんたカナルを間違えてるわよ。デカパイとクラックするつもりなら76へ行ってちょうだい‥‥』
『クラックてのはここじゃまずいんじゃないの‥‥』
『あら、私としたことが。ファス』
フリッツは頭がクラクラした。ゆっくり情報を吟味する間もなく、次々と言葉が迸る。胸ポケットにいれた記憶装置がかすかな唸り声をあげている。ダウンリンクされたデータが流れ込んでいるのだ。
フリッツはとにかくカナルを替えようとした。カナルマップを買っておけばよかった。とにかく適当に言ってみる。
「デュッセルドルフ30最新」
『ザルデルには行ってみたか。あそこはうまいシュニッツェルを出してくれる。誰が他にそういう店を知っているか』
しばらくたって、
『ザルデルってどこの店だ』
『ボンにある』
『そりゃ勘弁してくれ。ここはデュッセルドルフローカルだ』
「ここはどういう流れなんだ」
フリッツは呟いた。アップ?と〈耳〉が囁いた。思わずヤー、と答えている。
『誰だい』
「フリッツ・ハイダー。今日はじめてここに来た」
『グート!ここは公共だ。プライベート23へ来てくれ』
フリッツはそうした。とにかく誰か案内人が欲しかった。
『ハイダーさん。あなたは運がいい。俺は〈ナハトアウシェンネッツ〉のモデレータだ。〈ナハトドラーヘ〉‥‥NDと呼んでくれ』
「本名なのかい」
『まさか!偽名さ。ハイダーさんも使っても別に構わないんですよ』
フリッツはちょっと考えた。
「じゃあ今のところはフリッツでいいです」
『グート!フリッツ。さっきいたところは〈フライハイトシュトルム〉のデュッセルドルフ・ローカル・カナルの一本で、たまたま〈ナハトアウシェンネッツ〉の〈プブリクプラッペカナル〉(公用チャットチャンネル)を使っている。君はそこへ迷いこんだわけだ。今いるのは私用チャットチャンネルで、クローズドだ。つまり、俺と君との間だけで完結している』
「ぼくはどうしたらいいんです」
『は!そればっかりは俺に聞かれても困る。フリッツ。君は何を〈フライハイトシュトルム〉に求めている。それによるな。政治情報か。女か。商売か。ドラッグか。アーティスト連中との付き合いか。ニューク(核兵器)の製造方法か。ここには何でもある。たぶん俺もフリッツも今まで聞いた事もないような情報がどこかに埋まっている。ただ探すのが面倒くさいだけでな。だから見えない。でも見えないってことは無いわけじゃない』
「何でもあるって?本当に?国家機密も?」
『は!国家機密だって?情報公開法があるだろう。機密なんて時代遅れもいいとこさ。本当に情報をかくしておきたいなら、情報の存在そのものを隠さなきゃならん。機密だろうと、なんだろうと、そこに情報があることが知られたら最後、必ず暴かれる』
「レダ・インフォネッツも?」
しばらく間があった。
『‥‥あそこは別格だな。テッキー共が砂糖にたかる蟻みたいに群がっているが、穴を開けたって話はぜんぜん聞かない。ゼロだ。信じられるか? 連中、城みたいな企業町に閉じこもって、ガッチガチにプロテクトを固めてる。ヤーパン(日本)のNTNだって、レダに比べりゃアマチュアみたいなもんだそうだ。鉄の処女さ。あそこは』
レダ・インフォネッツは高信頼通信路のリセールとデータバンク貸与、および警備を専門とする情報企業だが、その実態はレダグループの情報インフラ整備を一手に預かるレダの背骨だった。レダは金と等価の情報をうなるほど抱えていると言われている。
『フリッツ! ハウプトシュトルム22に回線をブランチさせろ! この回線は確保したまま、22をアクセスするんだ。できるか?』
「やってみる」
フリッツはポケットから手動操作のコントローラーを取り出して悪戦苦闘する。途中ジョギングをする人とぶつかりそうになり、フリッツは道を離れ、木に寄り掛かった。ようやく操作方法を飲み込める。アクセス。
『‥‥戦闘は断続的に続いています。聞こえますか皆さん。銃声です。パレスチナ警察とイスラエル警察軍の合同部隊がJLF(エルサレム解放戦線)のコマンドと交戦しています。先程はイスラエル部隊が暴徒に催涙弾を水平に撃ち込みました。皆さん、聞こえていますか?わたしはデボラ・ジャーメイン。プライマリスクールの教師で、観光でここに来ました。ここはエルサレムです』
「ND!これは本当なのか!」
『本当らしい。ハウプトシュトルムの20番台が全部これを流している。28番は動画情報で、それを見る限り嘘とは思えん‥‥こいつはヨーロッパ全土に流れている。フリッツ、君の装備に〈目〉はついているか?くそっ、こいつはひどい‥‥』
〈目〉は買えなかった。フリッツは耳に神経を集中させる。
『あ!女の子が流れ弾に当たって倒れました。ちくしょう!これじゃ助けにもいけない!これは鎮圧なんかじゃない!聞こえますか皆さん。ここはあの〈嘆きの壁〉からさほど遠くない路地です。街の様子はよくわかりません。あちこちで銃声が響いています。ときおり大きな爆音がします。警察のヘリが数機飛んでいて、上空から銃撃を加えています。数日前から不穏な噂はあったのですが、こんなことになるなんて!』
「なんとかできないのか」
フリッツは言った。PCMデータのバックグラウンドには「パパパパパ」とか「タタタタタ」とかいった銃声が聞こえていた。
『何とかって?』
『ここには私の他に観光客が6名います。国籍はイギリスとベルギー、それとシンガポールです。私はイギリス人です。ここは危険になったので、避難したいのですが、どうしたらいいのかわかりません』
『31番で支援の動きがある。ギリシャの〈イージス〉が中心になって現地への情報提供を開始している。NPOだな。エルサレムにいる外国人でコンタクトターミナル(装着端末)を持っている人に向けてメッセージングしている。先生、気がつきゃいいがな』
「ND、なんでそんなことが解るんだ」
『俺のところにくればわかるさ‥‥来るかい?』
「どこだ」
『グラーベン通りに〈フレデリカ〉という花屋がある。その右隣のアパートだ』
フリッツは〈耳〉に注意を向けながら歩き出した。辺りを良く見ると、立ち止まって何事かに耳を傾けている人の姿があちこちにあった。皆、中近東にいるイギリス人女性の報告に聞き入っているのだ。
『サンキュー、オリュンポス。そのコースで移動してみようと思います。でも、どこに敵がいるんだか』
『CNNが速報を流しはじめた。‥‥だめだな、映像がない』
『皆、あの角まで、一気に走るわよ‥‥そう、逃げるの。警察署へ。‥‥ええ、身柄は保護してくれるはずよ。友好国だもの。いいわね』
フリッツはブランチを切り替えた。他の人間が何を考え、何を思っているのか知りたかった。切り替える度にかすかなノイズが混じる。
ジッ。
『‥‥はやくNATOを派遣させろ』
『バカ。そんなことをしたら戦争になっちまう‥‥』
ジッ。
『‥‥政府に圧力をかけて、脱出機をチャーターさせないと』
『どうやって』
『署名よ。2番の投票用チャンネルを使えば‥‥』
ジッ。
『‥‥ほっときゃいいんだ。連中の問題なんだから』
『でも、人が死んでいるんだぞ』
『だから何だ!俺達とどう関係してくるんだ』
『エゴイストめ‥‥』
ジッ。
『‥‥そもそも、当時のPLOが一枚岩でなかったことが、』
『そうは言っても、あのまま路線転換をしなかったら、衰退してしまったのでは‥‥』
ジッ。
『‥‥ふーん。で、どう?マラケシュは』
『文句ないわよ。一度は来るべきよ!損はしない、って感じよぉ‥‥』
ジッ。
『‥‥おい!20番に戻せ!例の女先生が大変だ‥‥』
次の瞬間、〈フライハイトシュトルム〉の全帯域が静まり返った。エルサレム・レポートを除いて。
『‥‥私達は路地に閉じ込められた格好です。パレスチナ警察の警官隊に保護されたのがまずかったのかしら。格好の標的にされています。敵の姿は見えないのだけれど、弾が壁に跳ねてあちこちに飛んできます。‥‥怖いです。
『警官の一人が壁から離れて地面に伏せるように指示しました。‥‥そうします。コンタクト・ターミナルが邪魔ね。NATO仕様のは邪魔にならないのかしら』
デボラの声ははじめの頃に比べて落ち着いていた。〈フライハイトシュトルム〉を介して大勢の人間との接触があることで、彼女は孤立していないことを感じているからだろうか。
『街のどこかから煙があがっています。ヘリが‥‥』
ジッ。
彼女の言葉は途切れた。
「ND!どうなったんだ」
『わからん。エルサレムからの通信が切れたみたいだ‥‥イージスがパニクッている‥‥遮断されたのか?』
聞きなれない声が割り込む。
『‥‥こちらはイージスのオペレータです。デボラが使用していたイスラエル経由のルートはイスラエル当局で遮断されました。トルコの技術スタッフがアンマンの経由のルーティングでヨルダン側からエルサレムへのアクセス経路を確立中‥‥コンタクト‥‥』
フリッツはフリンガー通りを急ぎ足で歩く。
『警官の一人が負傷しました。左腕を弾がかすめたみたいです。‥‥きゃ!』
フリッツは緊張した。銃弾がおそらく石畳に跳ねる音が響いた。デボラが身に付けているコンタクト・ターミナルは巧妙な作りになっていて、〈耳〉の部分にマイクが仕込まれている。ダミーヘッドホンと同じで、フリッツは自分が銃撃されたような錯覚を覚えた。銃声はますます近くなるが、周囲は平和な街並みが続くだけ。日本人観光客の集団が道端をぞろぞろと練り歩いている。緊張して表情がこわばったフリッツの横をデイパックを背負ったサイクリストが走りぬけていく。フリッツは自分が2つの世界に分裂して存在していると思った。身体はデュッセルドルフにあり、精神はエルサレムにある。
『警官が立つように指示しています』銃声が響く。『指示に従います。
『私達はどうやら、彼らがメヴォ-ハヴェイ-オーラムと呼ぶ路地を突っきろうとしています。‥‥もう、表を歩いているのは警官かJLFの兵隊だけです。道端には‥‥道端には死体が転がっています。銃を握った子供が死んでいます。なんてところなのここは。私の教え子と同じくらいじゃないの!』
フリッツは聴くに耐えられなくなってブランチを替えた。
『‥‥なんで、あんなのを垂れ流しにさせるんだ。あんなの戦争映画でも見てりゃ十分だろう』
『じゃあ、あんたがアクセス切ればいいでしょう』
『俺だって正規ユーザーなんだぞ、俺の使いたいように使って何が悪い』
『あんたは殺されかけているわけじゃないでしょう』
『だからって、こうしてよってたかっておしゃべりして、彼女を救えるってのか?』
『ええ、救えるわよ。次の選挙が近いことを知っているでしょう』
『それがどう関係するってんだ』
『あんた、救いようの無いバカね‥‥』
フリッツは洪水のようなおしゃべりの流れにクラクラした。
『フリッツ!』
NDが呼び掛けてきた。フリッツはほっとした。ブランチを切る。
『今どこにいる』
「今?‥‥今カゼールネン通りだ。〈カーシュ・ハウス〉の前だよ」
『グート!俺のアパートまで近いぞ』
「ND、あれを聞いてどう思った」
『どういう意味だい』
「俺は、自分がエルサレムにいるように錯覚した。この街を歩いているのに、そこらの角から銃を持った連中が出てくるんじゃないかと」
『よく聞く話さ。心配しなくていい。誰だってそうなるんだ』
「でも、現実の見分けがつかなくなるなんて‥‥」
『勘違いするな。エルサレムだって現実なんだよ。俺やフリッツは運よくここにいるってだけの話なんだ。
『フリッツ。今まで見えていなかったからといって、それが現実じゃないってわけじゃないんだぜ。逆に見えているものは薄っぺらな見せかけってことのほうが多いんだ』
「わかってるよ‥‥」
『でも、まぁ、あのレポートを聞きながら歩くのは精神的によくないかもな』
フリッツはブランチをきったまま、通りを歩いた。〈耳〉に聞こえてくるのはたまに話かけてくるNDの声だけ。今いるのは、ハンスリュッヘン通り。この通りはカゼールネン通りに続き、グラーフ・アドルフ広場に出る。しかし、目的のグラーベン通りはすぐそこだ。このあたりは旧市街区で、前世紀末に景観固定区域に指定されている。見掛けは古い建物が多いが、中身まで古いわけではなかった。フリッツはこの界隈が好きだった。フリッツが勤めるパブもこの近くにある。
気が付くと、一人の婦人警官がフリッツを見つめていた。フリッツは彼女を見つめ、微笑みかけた。警官はばつが悪そうに目をそらした。フリッツの様子がよほど怪しかったのだろう。
ここはデュッセルドルフだ。フリッツは自分に言い聞かせた。パレスチナ人とシオニストが闘っている所じゃない。NDはああいったが、しかし、こちらの現実のほうが大事だ。フリッツは思った。こっちの現実は締め出すことができないんだから。
フリッツは角を曲がってグラーベン通りに入った。〈フレデリカ〉という花屋を探す。
『フリッツ!聞いているか』
「ああ、聞いているよ」
『2番で投票が始まったよ』
「何の?」
『なんだ、やっぱり聞いていなかったのか。10分ほど前に、統欧外務省が〈フライハイトシュトルム〉の提言を受け入れて、臨時投票の結果に従うことに同意したんだ。次期総選挙前のご機嫌うかがいといったところだな。‥‥案が幾つか出されている。エルサレムを含む、パレスチナ自治区域を〈政情不安定地域〉に指定して、同地域に滞在する邦人を脱出させるため民間機を政府にチャーターさせる。そのための投票だ。別の選択肢として、軍事的にパレスチナに介入するって案が出ているが、こいつは通らないだろう。現実味に欠けるし、即応性もない』
「なんだか難しい話だな」
『単純な話だ。要するにあの女先生を助け出すってことさ』
それなら考えるまでもなかった。あの女先生を助け出せるなら、そのための手段があるのなら、どこに反対する理由がある?
「投票ってどうするんだ」
『2番カナルは中に支流があって、それぞれが選択肢になっている。どの支流がどの選択肢かは2番カナルの中で説明がある』
「今できるのか」
『無理だな。2番カナルはブリュッセルのグループが管理しているんだが、今、あのあたりでは輻輳が起きかけている。しばらく待ったほうがいい』
「なんでそんなことがわかるんだ」
『ここにくりゃわかるさ』
フリッツは22番にアクセスを戻した。あの女先生のことが気掛かりだった。
『‥‥私達は今キリスト教徒地区へ向かっています。ヒゼキヤの池の脇を通りすぎました。どうやら私達は聖墳墓教会聖堂へ案内されているようです。銃声はここでは小さいですが、戦闘は続いているようです』
フリッツは〈フレデリカ〉を見つけた。店を切り盛りしているのはショートカットの明るい女性だった。美人ではないが、見ていると心が和んだ。
花屋の右隣りは、NDの言うように、アパートだった。フリッツはおずおずと中に入った。
「ND。アパートに入った。どの部屋なんだい。悪いけど迎えに来てくれないか」
『すまないフリッツ。事情があって、俺はここを動けないんだ。部屋は2階。202号室だ』
フリッツは足音を立てて階段をのぼった。2階の廊下には照明がなく、薄暗い。廊下の端にある窓が唯一の光源だった。
202号。
フリッツはドアベルを鳴らした。
『どうぞ』
ガチッとドアロックが外れる音がした。しかし、ドアが開く気配がない。フリッツはドアを静かにあけた。
『ようこそ』
「ND、どこにいる」
『そのまま奥へ。出迎えられなくて済まない』
フリッツは室内に足を踏みいれた。屋内は几帳面なほどに片付けられていた。かすかに芳香剤が匂っていた。
「ND?」
フリッツは不安にかられた。背後でドアがしまり、ロックがかかった。
『さぁ、奥へ』
フリッツは意を決して、奥の部屋へと歩いた。途中、廊下のわきの部屋をちらりと覗くと、女ものの服がシングルベッドの上に放り出してあった。フリッツは気まずさを感じずにはいられなかった。NDは何を見せようとしている?
『‥‥ようやく聖堂にたどり着きました。ここにはわたしのような外国人観光客が集められています。‥‥血の臭いがする‥‥。怪我をした人も多く、野戦病院のようです。‥‥もっともわたしは野戦病院なんて行ったことがないのだけど。‥‥わたしたちはエルサレムを出られるのかしら‥‥』
フリッツは22番へのアクセスを解除した。とりあえずは無事なのだろう。
廊下の奥に開いた扉があり、そこから光がもれていた。フリッツはその部屋に入った。
「ようこそ。フリッツ。ここが〈ナハトアウシェンネッツ〉の心臓だ」
NDの声がした。声の主はベッドの上で、様々な医療装置に囲まれて横たわっていた。部屋の片隅には折り畳まれた車椅子があった。そしてこの部屋には、それら医療装置以上に多くの電子機器が積み上げられていた。ベッドの上に横板がわたされ、その上にディスプレイ装置が乗っていた。
「驚いたかい」
「‥‥ああ」
フリッツはそう言うのがやっとだった。
「俺がNDだ」
ベッドの上の人物は言った。ベッドのマットレスが傾き、NDの上半身が持ち上がった。フリッツはその髭面をみつめた。NDは病人にしては健康そうで、やや太りぎみだった。
「病気か何かかい‥‥」
「生まれつきね。筋無力症だ。といっても、それほど深刻なわけじゃない。ドーピングで神経伝達物質を増強しているから、心臓まで止まることはない。今日はインプラントの補充なので、ベッドにしばりつけられている。首から下に力が入らないんだ。こんな日でなけりゃ出迎えられたんだが‥‥」
「じゃまじゃないのかい」
「とんでもない。退屈していたのさ」
「そうかい。それなら‥‥あらためて‥‥フリッツです。案内してくれてどうも」
フリッツは手を差し出した。NDは悲しそうに微笑んだ。目を動かして自分の手を見る。フリッツは自分から進み出ると、NDの手を握った。
「済まない」NDは言った。「ところで、〈フレデリカ〉はすぐにわかったかい」
「ああ」
「いい女だろう」
フリッツはニヤリと笑った。
「廊下の横の部屋は、じゃあ‥‥」
「いろいろと世話になっているよ。彼女にはね‥‥」
「結婚を?」
「していない」
フリッツはあらためて周囲を見回した。
「それにしても‥‥すごい部屋だな」
「世界の臍さ。俺はマルガ‥‥彼女の名前だ‥‥の助けなしじゃ、どこにも行けない。というより、ほとんどをこの部屋で過ごしているんだ。でも、ここは世界中につながっている。〈フライハイトシュトルム〉の主要なカナルはここでモニタできる」
「幾らかかった」
「さぁ。幾らだろう‥‥。でも、全部自分で稼いだ金さ。どうやら、株に才能があるらしくてね」
「うらやましいよ」
フリッツは言った。NDは得意げに微笑んだ。
「俺とあの女先生とは似ているよ。孤立無援で周囲は危険なものばかり。しかし、ネッツがあれば、孤立はしない。こういう身の上だと、それが何よりもありがたい。それに、社会を動かす力になれる。恩返しみたいなもんだ。微力なものだがね。‥‥さて、あの女先生を助けることにしようか。俺は文字どおり無力な存在だが、塵も積もればなんとやらだ。フリッツ、腹はきまっているんだろう」
「もちろん」
「グート!」
そして二人は2番カナルにアクセスした。